練習メニューに「UT 90分」と書かれていて、心のどこかで納得できていない—— そういう気持ちは、まったく自然なものです。レースは数分で終わるのに、 その何倍もの時間を、息が上がらない強さで漕ぐ。一見すると、遠回りに見えます。
ところが、この遠回りには理由があります。体がエネルギーをどう作っているか、 そして2000mというレースがどんな仕組みで支えられているかを知ると、 「ゆっくり漕ぐ時間」の意味がはっきり変わってきます。
体は、三つの財布からエネルギーを出す
筋肉を動かすお金にあたるものを、体は三つのやり方で用意しています。 細かい化学の話には立ち入らず、財布にたとえて整理してみましょう。
一つめはすぐ出せる小銭の財布。筋肉の中にあらかじめ置いてある分で、 スタートの数本のような、ごく短い全力に使われます。量が少ないので、すぐ底をつきます。
二つめは糖を急いで崩す財布。酸素の供給が追いつかないほど強く動くとき、 糖を手早く分解して力を作ります。これが一般に「無酸素」と呼ばれる仕組みで、 副産物として乳酸(強く動いたときに増える物質)が出ます。速いけれど、長くは続きません。
三つめは酸素を使ってじっくり支払う財布。呼吸で取り込んだ酸素を使い、 糖や脂肪をゆっくり燃やして力を作ります。これが「有酸素」の仕組みです。 出せる勢いは穏やかですが、何十分でも払い続けられます。
2000mは、実は「有酸素のレース」
レースの体感は、間違いなくきついものです。だからこそ意外に聞こえますが、 2000mレースで消費されるエネルギーの大部分は、三つめの財布、 つまり酸素を使う仕組みから支払われています。World Rowing(国際ボート連盟)の 公開コーチング資料でも、2000mは有酸素と無酸素がおおよそ4分の3対4分の1の割合で 支えられる種目として紹介されています。
公開されている研究をいくつか見比べると、報告される値には幅があります。 測定の方法、選手の年齢、艇種、性別によって変わるためです。 レンジで押さえておくのが誠実な理解の仕方でしょう。
レース中にいちばん苦しく感じるスタートの数十本の記憶が、 レース全体の割合を見誤らせているのです。きつさのピークと、 エネルギーの総量は、別々に考える必要があります。 レースがきついという体感は正しい。けれど、そこから 「だからきつい練習ばかりすればいい」とは、まっすぐにはつながりません。
強度区分 — UT2 から AN まで
割合の話が分かると、練習の強さを段階に分ける意味が見えてきます。 日本の艇庫では「UT」という言葉がひとまとめに使われることが多いのですが、 この呼び名はもともと英国のトレーニング区分に由来し、そちらでは UT2 と UT1 に分かれています。英語圏の会話では steady state(ステディステート。一定の強さで漕ぎ続ける練習)とも呼ばれます。
英国のGBローイングチームが公開している区分表では、名前そのものが狙いを表しています。 下から順に見ていきましょう。
- UT2 — 酸素を使う力の土台づくり会話ができる強さで長く漕ぐ帯。区分表では「基礎的な酸素の利用」と名づけられている。脂肪も燃料として使いやすく、翌日に疲れを残しにくいので、練習量の柱になる。
- UT1 — 土台の、少し上のほう同じく酸素を使う帯だが、UT2よりやや強い。会話は短い返事くらいに減る。土台づくりと、もっと速い練習との橋渡しになる位置。
- AT — 無酸素性作業閾値のあたり「これ以上強くすると乳酸がたまり始める」境目のあたりで漕ぐ帯。長く続けられる上限を押し上げることを狙う。
- TR — 酸素を運ぶ力を伸ばす区分表の名前は「酸素の運搬」。レース強度に近い、短めの区間を繰り返す。心臓と血液が酸素を運ぶ能力そのものに刺激を入れる。
- AN — 無酸素の帯レース強度を超える短い全力。二つめの財布を意図的に使い切る練習で、区分表ではさらに「無酸素性の容量」と「無酸素性のパワー」に分けられている。
レート(1分間に漕ぐ本数)も、強度が上がるにつれて自然に上がっていきます。 ただし、レートはあくまで強度の結果です。 下の目安は、「その帯ではこのあたりに落ち着くことが多い」という幅です。
なぜ、長い距離をゆっくり漕ぐのか
ここまでを踏まえると、冒頭の疑問に三つの角度から答えられます。
一つめ。レースの大半を支えているのが、酸素を使う仕組みだから。エネルギーの7割から9割近くを担う土台を厚くすることは、そのままレースの底上げになります。 ローイングの体力づくりを扱った公開のレビュー論文でも、持久系のトレーニングが中心に置かれる、 という整理は共通しています。
二つめ。低い強度なら、量をこなしても回復を邪魔しないから。強い練習は刺激も強いぶん、回復に時間を食います。高強度ばかり並べると、 次の練習の質が落ち、結局はどちらも中途半端になります。 低強度は、翌日の練習を犠牲にせずに時間を積める、数少ない選択肢です。
三つめ。ゆっくり漕ぐ時間は、技術を作る時間でもあるから。息が上がっていない状態でしか、フォームは丁寧に直せません。 長い低強度の時間は、1本の質を作り直すための練習時間でもあります。
この数字を「速い練習に意味がない」と読むのは誤りです。高強度の練習を効かせるために、低強度で土台と回復を確保している、 という順番の話です。
ゆっくり漕ぐ時間は、サボっている時間ではありません。次の一本を速くするための、土台の時間です。
低強度と高強度をどんな比率で組み合わせるのが正解かは、 公開研究のなかでも意見が分かれるところです。 興味があれば、下の深掘りをのぞいてみてください。
強度ごとの具体的な漕ぎ方と、距離×本数×レートへの落とし込みは、 練習メニュー側にまとめています。強度ゾーンの使い分けと、配分を実際の一週間へ落とすメニューの組み立て方も、あわせてどうぞ。
明日の練習で試せることは、一つだけで十分です。低強度の日に、 エルゴメーター(ローイングマシン)の画面のスプリット(500mを進むのにかかるタイム)を いったん忘れて、「会話ができる強さを最後まで保てたか」だけを振り返ってみてください。 最後の10分でスプリットを上げたくなったら、それはもう、 べつの帯の練習になっています。
