こぎだし

SAFETY

沈したら — 落水時の手順と、冬の水の話

艇がひっくり返って水に落ちることを、ボートでは「沈(ちん)」と呼びます。 落ちた直後の動き方、再乗艇の手順、冬の低水温の危険、 そして岸で待つ人の動きまで、国内外の公開安全資料をもとに順番に整理しました。

・ 読了目安 12分

沈は、起きるものとして備える

沈の多くは、決まった場面で起きます。止まっているときに、ブレード (オールの先の、水をつかむ平らな部分)を立てて水中に入れたとき。 艇への乗り降り。キャッチの姿勢で静止したとき。ほかの艇や障害物との 衝突。急な体調の変化や、オールが外れるなどの器具の故障もあります。 かなりの部分は予測でき、備えられる出来事です。

だから世界の安全資料は、沈を想定内の出来事として扱い、 起きたときの動き方を全員が知っておくことを求めています。日本の 安全マニュアルも、少なくともシングルスカル(1人乗りの艇)に乗る 漕手には、自力で戻る手順の理解と練習を求めています。

落ちた直後の動き方

落ちた直後にやることは三つで、順番があります。

この順番で
  1. 艇につかまる艇から離れないことが、すべての前提です。競技艇は満水になっても人がつかまって浮けるように設計されています。
  2. 呼吸を整える冷たい水では、意思と関係なく息が乱れます。頭を水の上に保って、おさまるのを待ちます。
  3. 体を水から出す裏返った艇の上に乗ってかまいません。体が水から出ているほど、冷えは遅くなります。

「艇から離れない」は、国内外のすべての公式資料が一致して挙げる 第一原則です。World Rowing(国際ボート連盟)が各国に示す最低安全基準は、 こう言い切ります。

艇は、重大な破損がないかぎり、あなたの救命いかだです。

競技艇は、コクピット(漕手が座る、艇のくぼんだ部分)が満水に なっても漕手がつかまったまま浮いていられるよう、国際基準で浮力が 定められています(満水時にシートが 水面からおよそ5cm下までにとどまる基準)。ただし、 老朽化や破損で浮力が失われた艇の事例もあります。「浮く」を支えて いるのは日頃の整備と点検です。裏返った艇にまたがるときは、 端の細くなったところから乗ると上がりやすいとされています。

沈の図解。裏返った艇のふちに漕手がつかまって浮かんでいる。遠くの岸へ向かう点線の矢印に赤いバツ印が重ねてあり、泳いで岸に向かってはいけないことを示している
艇は救命いかだ。つかまって、呼吸を整えて、待つ。岸は思うより遠い。
やらないこと
  1. 岸に向かって泳がない岸はいつも、思うより遠くにあります。冷えて疲れた体は、思うようには泳げません。
  2. 流れていく物を追わないシートやウェアが流れても、追いかけないでください。艇から離れる理由になりません。
  3. 服や靴を脱がない泳ぎにくくても脱がないでください。濡れた衣類は、水中では保温に働きます。

泳ぎに自信がある人ほど、この場面で泳ぎたくなります。英国の競技団体は、 今世紀に国内で転覆後に亡くなった漕手は2人で、どちらも泳ぎが得意で、 どちらも艇を離れて泳ぐことを選んだ、と注意を呼びかけています。 事故の記録で繰り返し現れる拡大要因も「艇から離れて泳いだ」です。

助けを呼ぶ合図も決めておきます。手やシャツを頭の上で大きく振る。 オールを1本、空に立てる。ホイッスルを持っていれば吹く。 声だけで呼ぶよりも、遠くまで届きます。

再乗艇の手順

呼吸が落ち着いたら、再乗艇さいじょうてい。沈からの回復。水の中から自力で艇に乗り直すことを試します。ここではシングルスカルの基本形(コクピットの横から乗る サイド・エントリー)を、日本ローイング協会の安全マニュアルに沿って 並べます。

  1. 止まって、確かめる
    怪我はないか。どちらへ流されているか。周りに他の艇はいるか。数秒でいいので状況を見ます。
  2. 裏返った艇を起こす
    自分の側のオールを艇と平行にし、自分の側のリガー(オールを支える横の金具)に足をかけ、反対側のガンネル(コクピットの縁)を引き寄せると、艇が表に返ります。
  3. ハンドルを2本そろえて持つ
    スターン(後ろ)側の手で、2本のハンドルをまとめて握ります。乗り終わるまで、この手を離しません。左右の手が開くと落ちます。
  4. 艇を水平にする
    ブレードは水をつかむ面を下に向けて水面に寝かせると沈みにくく、艇が安定します。シートが目の前に来る位置につきます。
  5. 足で泳ぎ上がる
    ガンネルに体重をかけず、立ち泳ぎからバタ足で一気に上がり、おなかをシートの上に載せます。腕の力でよじ登ろうとすると失敗します。
  6. ゆっくり姿勢を戻す
    ハンドルを握ったまま、体の向きを整えて座り直します。急がないでください。
再乗艇の図解その1。表向きに戻した艇の横に浮かび、2本のオールのハンドルを片手でまとめて握っている。ブレードは水面に平らに寝かせて艇を安定させている
ハンドルは2本まとめて握る。ブレードは水面に寝かせる
再乗艇の図解その2。体を水面近くで水平にし、バタ足で泳ぎ上がりながら、おなかをシートの上に載せようとしている。手はハンドルを握ったまま
体を水平に、バタ足で。おなかをシートへ載せる

よくある失敗は、ハンドルを離すか、左右の手が開いて再び落ちることです。 反対側の高いところにあるハンドルを艇越しに取ろうとしても、うまく いきません。手前のオールを確保したうえで、艇の下から手を回し、 いったん潜って反対側にまわる方法が勧められています。

そして、再乗艇に固執しないでください。何度も試すと体力を急速に 消耗し、泳ぐ力も握力も失われていきます。安全マニュアルは、戻れない ときは粘らずに艇につかまって静かに救助を待つことを、有望な選択肢 として挙げています。つかまって待つのも正しい行動のひとつです。

この手順は、安全な場所で一度体験しておくと確実になります。多くの 国で、転覆訓練は初心者のほぼ必修という扱いです。浅く安全な水域や プールで、救助できる体制を整えて行います。試して戻れなくても かまいません。難しさと疲れ方を体で知っておくこと自体が、いざと いうときの判断を支えます。

冬の水で何が起きるか

競技団体の資料は、水温がおよそ20℃を下回る水を「冷水」 として扱います。水は空気のおよそ25倍の速さで体から熱を奪うため、 冷たい水に落ちた体には、順番の決まった変化が起きます。

最初に来るのが冷水ショックです。意思とは関係なく大きく息を吸い込み、 呼吸が激しく速くなります。日本と英国の資料は、この反応が最初の 数十秒から数分でおさまるとしています。その間に頭が水に沈むと、 ひと呼吸で水を吸い込みかねません。だから最初の仕事は、艇につかまって 頭を水の上に保ち、呼吸がおさまるのを待つことです。

次に、手足が利かなくなっていきます。冷えた指はハンドルを握れなく なり、腕と脚から泳ぐ力が抜けていきます。少しずつ進むため、 「まだ大丈夫」と思っているうちに再乗艇も泳ぎもできなくなることが あります。さらに浸かり続けて体の芯まで冷えると、低体温症が始まります。

英語圏には「1-10-1」という覚え方があります。呼吸を取り戻すのに およそ1分、意味のある動きができるのはおよそ10分、意識を保てるのは およそ1時間、という順序の目安です。ただし、この数字は持ち時間の 保証ではありません。実際の進行は連続的で、水温・体格・着衣で 大きく変わるという批判もあります。覚えておきたいのは順序のほうです。 呼吸が先に乱れ、次に手足、最後に意識が下がっていきます。

冷水のライン
20℃以下
警戒を強めるライン
15℃以下
特別対策のライン
10℃以下
日本ローイング協会とWorld Rowingの公開資料に共通する段階の目安です。救命具の着用、救助艇の随伴、水域の限定など、実際の運用は水域・チームのルールで決まります。

時間の感覚も持っておきます。日本ローイング協会の安全マニュアルは、 水温15℃以下では1〜2時間、10℃以下では 30分〜1時間ほどで衰弱し、意識を失う危険があるという目安を示して います。あわせて、水温(℃)×3分以内に自力で戻るか 救助される手立てを講じてから乗艇する、という考え方も紹介されて います(10℃なら30分)。いずれも人・着衣・波の条件で大きく変わる 目安です。だから冬の艇庫では、気温だけでなく水温を測る習慣が 勧められています。

冷たい水では、泳力は頼りになりません。2021年にアメリカの大学で 起きた事故では、水温4〜5℃の日に艇が転覆し、乗っていた5人は全員 スイムテストに合格していましたが、全員で岸まで泳ぐことを選び、 2人が亡くなりました。英国の資料も、プールで泳げることは冷たい 開けた水面で泳げることの保証にならない、と繰り返し注意しています。

冬の服については、綿の厚着で艇に乗らないでください。濡れると重く なるためです。乾いた着替えを岸に用意しておきます(冬の持ち物は持ち物チェックリストで 確認できます)。冬の練習全体の組み立ては冬季トレーニングにまとめてあります。

岸で待つ人・チームにできること

沈が起きた瞬間から、岸とほかの艇にも仕事があります。

まず、落水者を泳がせて呼び寄せないこと。「泳いで来い」という声かけは、 いちばん危険な行動を促してしまいます。救助に向かう艇のほうを落水者に 近づけ、つかまらせてください。並んで練習している僚艇が横付けして 艇を支えるだけで、再乗艇は一人で戻るよりも成功しやすくなります。 ただし、救助する側が能力を超えた無理をすると二重の事故になります。 届かないときは、救助を呼ぶことに切り替えてください。

救急要請の目安は覚えやすいものです。意識がもうろうとしている。 ろれつが回らない。つじつまの合わない言動がある。あるいは、震えが 止まっている。震えが止まるのは、回復ではなく悪化のサインです。 ひとつでも見えたら、ためらわず119番に電話してください。低体温症は、 救助されたあとに症状が急変することが知られています。岸に上げた あとも、そばで様子を見続けてください。

してはいけないことも決まっています。手足をこすったり、マッサージを したりしないこと。体を動かして温めさせないこと。アルコールを飲ませ ないこと。冷えた手足の血液が急に体の芯へ戻ると、かえって危険だから です。意識がはっきりしないときは、飲み物も与えないでください。 温め方の細かい判断は、救急隊と医療機関に委ねます。

心肺蘇生に備えるなら、手順をウェブで読んで覚えるより、消防や 日本赤十字社の講習を一度受けておくほうが確実です。出艇記録や連絡 体制、帰着の人数確認といった岸側の日常の型は、安全に送り出す・迎えるに 送り出す側の目線でまとめてあります。

沈を前提にした予防

ライフジャケット(救命具)について、日本ローイング協会は浮力7.5kg以上のものを認め、練習時は携行を最低基準として います。常時着用するかどうか、どの型を使うかは、水域ごとの安全 ルールで決まります。泳ぎに不安がある人、経験の浅い若い漕手、 低水温期の舵手(コックス)などには、着用が求められる場面が 増えます。自分の水域のルールを指導者に確認してください。 泳ぎが苦手な人が膨張式を早めに膨らませておくことも、 資料の中で勧められています。

一人で漕ぎに出ると、沈のときに気づいてくれる人がいません。 2艇以上で行動して互いに支え合うバディ・システム僚艇と組になって行動し、沈のときは艇を横付けして再乗艇を支える運用は、各国の資料がそろって勧める運用です。中高生の単独乗艇は、 指導者の体制の下で判断されるものです。自分だけで決めないでください。

出艇するかどうかの判断も予防のうちです。水温や風の条件に応じて、 出艇の可否や条件(救命具の着用、水域の限定、救助艇の随伴など)を 決めるのは指導者と水域のルールです。迷う条件の日に「出たい」と 思ったら、その気持ちごと指導者に相談してください。

出艇前の自分チェック

  • 靴から足がすぐ抜けるか(かかとの固定ひもは切れていないか)
  • バウボール(艇の先端の白いボール)は確実に付いているか
  • リガーまわりに、転覆時に体を傷つける鋭い突起はないか
  • ホイッスルなど、音で助けを呼べるものを身につけたか
  • 今日の水温と、単独になっていないか、戻る時刻を指導者と確認したか

観点の例です。正式な点検項目と出艇基準は、チーム・水域のルールに従ってください。

靴の項目には理由があります。転覆した艇から抜け出すとき、足が靴に 残ると脱出できません。かかとの固定ひも(ヒールリストレイント)と、 すぐ抜ける靴の仕組みは、国際基準が求める安全装備です。海外では 靴が脱げずに溺れかけた事例も報告されています。