はじめに、この記事の立ち位置をはっきりさせておきます。ここに書くのは、公開されている 研究やガイドラインで一般に言われている考え方です。診断(何という状態なのかを決めること)も、治療やストレッチの処方(何をどれだけ やるかを指示すること)も行いません。腰の痛みは原因も経過も人によって違い、文章だけで 判断できるものではないからです。
それでも知っておく価値はあります。腰痛の多くは、練習の組み立て方という、漕手と指導者 の手の届く範囲にある要因と結びついている。それが国際的な合意声明の見方だからです。
なぜ、腰に負担が集まるのか
ローイングは、深く前に傾いた姿勢から、脚で押して体を後ろへ起こすという一往復を、 練習中ずっと繰り返す競技です。キャッチ(ブレード、つまりオールの先の平たい部分を水に 入れる瞬間)では、体は最も前に折りたたまれています。ここで股関節がしっかり動いて いれば、前傾は骨盤ごと倒れる動きになります。反対に股関節の動きが足りないと、足りない 分を背中の丸まりで埋めることになる。同じ「前に届く」でも、体の中で起きていることは 別物です。
やっかいなのは、この使い分けが疲れてくると崩れることです。長く漕ぐほど、あるいは速く漕ぐほど、同じキャッチとフィニッシュの位置に 届くために背骨が余計に曲がる。そうした傾向が、複数の研究をまとめた総説で報告されて います。つまり「フォームが悪いから腰が痛くなる」だけでなく、「疲れがフォームを変えて しまう」という順番も起きている。エルゴメーター(ローイングマシン)は、休みを挟まず 同じ動作を続けやすい道具です。研究で繰り返し話題になるのも、この連続した使い方の方 です。
エルゴと水の上では、同じ「漕ぐ」でも体の使われ方に差があります。エルゴでの動作は 水上より腰の丸まりが大きくなりやすい、という比較研究の報告があります。陸上トレー ニングが中心になる冬の時期に、腰痛の報告が増えたという調査もあります。冬のエルゴ期 は、量だけでなく姿勢の面でも、腰にとって条件が変わる時期です。
規模の感覚も添えておきます。国際競技団体の解説では、成人漕手の3人に2人が12か月 以内に腰痛を経験する、という言い方が紹介されています。漕がない人では3人に1人です。 ただし下の数字と同じで、調査の方法や腰痛の定義によって値は大きく動きます。
予防として、一般に言われていること
先に、いちばん大切な前提を書きます。「これをやれば腰痛を防げる」と確立された方法は、まだありません。国際競技団体が公開している解説でも、決定的な予防法は示されていない、と正直に書かれて います。ですから以下は「守れば安全になる手順」ではなく、公開資料で共通して語られて いる注意の向け先です。
一つめは量の増やし方。急に練習量を増やした時期は、体がその変化に 追いつく前に負担だけが積み上がります。新学期や合宿、大会前など、量が急に増える 場面はだいたい決まっています。二つめは長く続けるエルゴとのつきあい方。休みなく続く長時間の使用に注意が向けられており、区切りを入れる、内容を分けるといった 工夫が語られています。三つめは疲れた状態のフォーム。崩れた形のまま本数を重ねるより、その日の練習を早く切り上げる判断のほうが、結果的に 体を守ることがあります。
見落としやすいのは、陸上トレーニングです。エリート漕手では、障害の最大半分が陸上 トレーニング(エルゴやウエイトトレーニング)中に起きていたという報告があります。 大学生の漕手では、腰痛とフリーウエイト(バーベルなどの重り)のトレーニングとの 関連も報告されています。漕いだ量とウエイトの量は、腰にとっては一つの負荷です。 増やすときは、合わせて数えてください。
体の条件としては、股関節まわりが挙げられています。国際競技団体の解説は、股関節を 曲げる動きの可動域の不足、ハムストリング(ももの裏の筋肉)の硬さ、体の後ろ側の 筋持久力の不足を、腰痛と関連づけて注意を向けています。前傾を股関節から作れるか どうかは技術の話でもあります。動きの側からはレッグドライブとボディスイングで、体を整える側からはモビリティで扱って いるので、合わせて読んでください。
体幹(胴体を支える筋肉)については、静止して耐えるだけの種目より、体を動かしながら 背中側を長く働かせる種目に期待が寄せられている、という見方が国際競技団体の解説で 示されています。ただしこれも「効く」と決まった話ではありません。この記事では具体的な 種目や回数の指示はしません。何をどれだけやるかは、指導者や、必要なら医療者と一緒に 決めるべきことだからです。
痛みが出たときの原則
痛みが出てからどう振る舞うかは、あらかじめ 決めておけることです。判断に迷う場面で「決めておいた通りに動く」ためのものとして、 次の順番を読んでください。
- 我慢して漕ぎ続けない痛みを押して続けることが、強さの証明になることはありません。いつもと違う痛みを感じたら、その場で漕ぐのをやめる、または強度を下げる判断をしてよい。
- その日のうちに指導者へ伝える隠すほど対応は遅れます。伝えることをためらわせない雰囲気を作るのは、チーム全体の仕事です。国際的な合意声明でも、痛みを言い出せる文化づくりが推奨されています。
- 痛みを強める動きから、いったん離れる何が痛みを強めるかは人によって違います。同じメニューを形だけ続けるより、負担のかかる動きから距離を置くほうが先です。
- 自己判断で押し通さない「休めば治る」「ストレッチで何とかなる」と自分で結論を出さない。インターネットの情報(この記事も含みます)で診断はできません。
- 医療機関に相談する痛みが続く、繰り返す、しびれや脚の症状をともなう、日常生活にも出る。こうしたときは、医療機関で診てもらってください。何という状態なのかを決められるのは医療者だけです。
- 戻り方は、医療者と指導者と一緒に決める復帰は「痛みが消えた日から全部元通り」ではありません。段階を踏む戻し方を、医療者の指示と指導者の計画を合わせて決めます。
痛いと言えることは、弱さではありません。艇を降りる判断のほうが、難しい。
復帰についても、期間の感覚だけ持っておいてください。腰の障害からの復帰には 数か月単位の期間を見込む報告があります。状態と経過で大きく変わるため、基準に なるのは医療機関の判断です。
腰以外の痛みは、別の記事にまとめてあります。手のまめやお尻の痛みなど、始めた ばかりの時期に多い困りごとはまめと体の痛み図鑑へ。深呼吸や咳、寝返りで強まる胸の痛みには、腰とは別の注意が必要です。肋骨疲労骨折を読んでください。
日本の現場と、海外のガイドラインを重ねる
海外の合意声明が繰り返し強調しているのは、教育・負荷の管理・早く負荷を外すこと・そして痛みを言い出せるチームの空気の4つです。器具や種目、技術や筋力の話より前に、コミュニケーションが置かれています。
いっぽう日本の学校部活動には、練習量そのものに公的な枠組みがあります。スポーツ庁が 2018年に示したガイドラインは、休養日と活動時間の目安を数字で置きました。これは腰痛 予防のために作られた基準ではありませんが、「量が急に膨らむのを防ぐ」という点では、 海外で語られている負荷の管理と同じ方向を向いています。
枠組みがあることは強みです。ただし、時間の枠だけでは腰は守れません。決められた時間の 中でも、量は前の週から急に増えることがありますし、疲れたままの一本は積み上がります。 そして、枠組みがどれだけ整っていても、痛みを言い出せなければ何も始まりません。漕手が痛みを隠す傾向は、複数の研究で実際に記録されています。海外のガイドライン が「文化」を挙げているのは、そこが最後に残る穴だからです。 日本の艇庫でいますぐ足せるものがあるとすれば、「腰が痛い」と 言った漕手が損をしない空気かもしれません。
正式な安全上の判断、練習の実施可否、体の状態についての結論は、この記事の役割では ありません。指導者・主催者の指示と、医療者の判断が最優先です。
