こぎだし

TECHNIQUE

セットとバランス — 艇が傾くのは、誰のせいでもない

艇が左右に傾いて、うまく漕げない。ローイングを始めて最初にぶつかる壁です。でも、それはあなたの運動神経の問題ではありません。ローイングの艇は、物理的に「放っておくと倒れる」ようにできています。傾く仕組みが分かると、直すべき場所も見えてきます。

読了目安11分レベル基礎公開日2026.07.27
シングルスカルを艇の後方から見た線画。艇はわずかに左へ傾き、左右のオールが水面に対して違う高さになっている。水面には静かな横線が引かれている。

乗り始めたころ、いちばん多い悩みはたぶんこれです。艇が左右に傾いて、落ち着かない。ブレードが水面に引っかかる。片側だけ沈む。怖くて力が入る。

先に、いちばん大事なことを書きます。それは、あなたが下手だからではありません。ローイングの艇は、物理的に「何もしなければ倒れる」ようにできています。 傾かないほうが例外なのです。この記事では、まず言葉を整理し、次に なぜ倒れるのかを物理から見て、最後に「どこを直せばいいのか」まで進みます。

「セット」は、二つのことを指している

日本の艇庫で「セット」と言うとき、実は別々のものを指していることがあります。

一つは、フィニッシュのあと、腕を出して上体を戻した「姿勢」。「ハンズセット」「ボディセット」という言い方もします。 もう一つは、艇が左右に傾かず、水平に保たれている「状態」。「セットが崩れる」「セットを取る」はこちらです。

面白いことに、英語圏ではこの二つが別の言葉に分かれています。米国ローイング連盟(USRowing)の公式用語集は、set をこう定義します—— 「艇のバランス。ハンドルの高さ、漕手の傾き、コンディション、 タイミングに影響される」。姿勢の意味は載っていません。ローイング専門 メディアの用語集も同じで、そちらでは姿勢のほうは「ボディアングル」という 別の項目になっています。

では、日本語の「姿勢としてのセット」に当たる英語はあるのか。 ぴったりの技術用語は見つかりませんでした。ただ、British Rowing が リカバリーを説明するとき、「漕手が次の一本に向けてwell set(よく整った状態)になれること」という書き方をしています。 これは名詞の技術用語ではなく「整っている」という形容詞ですが、 日本語の「セット」の語感に近いものが英語にもあることは分かります。

この記事は、二つを切り離さずに扱います。理由は単純で、この二つは因果でつながっているからです。British Rowing は、リカバリー冒頭の姿勢についてこう書いています。

この姿勢は、一本の疲れから回復するのを助け、 そして艇を水の上で水平に保つのに役立つ。

姿勢(=セットの一つめの意味)が、水平(=二つめの意味)をつくる。 日本語で同じ「セット」と呼ばれてきたのは、案外的を射ているのかもしれません。 なお、姿勢そのものの手順——手をどう出し、上体をいつ戻すか——はバックスイングとボディオーバーに まとめてあるので、この記事では深入りしません。

艇は、放っておくと倒れる

ここからが本題です。なぜ艇は傾くのか。答えは、技術より先に、物理にあります。

船が安定するかどうかは、重心とメタセンタ(傾いたときに浮力が作用する点から決まる、安定性の基準になる点)の 位置関係で決まります。重心がメタセンタよりにあれば、傾いても 自然に戻る。逆に重心がにあると、傾くほど倒れる力が増えていく。

レーシングシェルは、後者です。ある艇の設計文書によれば、エイトの メタセンタは喫水線からわずか7〜9センチほどの高さにあります。漕手はそれより ずっと高い位置に座り、上体はさらに上にある。だから重心はメタセンタを大きく超え、艇は本質的に不安定になります。

もう一つ、決定的な事情があります。艇より、人のほうがはるかに重いのです。

シングルスカルの最低重量
14kg
エイトのメタセンタ高さ
7–9cm
フォアで人が占める割合
≈87%
艇の最低重量は World Rowing の競漕規則の値(艤装を含む)。メタセンタ高さは米国の艇メーカーの設計文書に記載された値で、重心を喫水線の高さに仮定した計算です。人の割合は、舵手なしフォアを数値シミュレーションした査読論文の設定(艇49.6kg・漕手85kg×4名)から計算したもの。艇種・体格・設計で変わります。

14kgの艇に、その何倍もの重さの人間が、高いところに座っている。倒れないほうが不思議です。実際、舵手なしフォアを数値シミュレーションした査読論文は、 漕手が何も制御しなければ傾きは発散していく(=倒れる)と示しています。

艇が傾くのは、あなたのせいではありません。 放っておけば倒れるものを、毎回立て直しているのです。

では、漕手は何をして立て直しているのか。同じ論文が答えを書いています。左右のオールロック(ゲート)に、逆向きの上下の力をかけているのです。片方を押し下げ、もう片方を持ち上げる。オールが左右に長く張り出して いるおかげで、この「てこ」はとても強く効きます。だから必要な力はごく小さく、ハンドルをわずかに上下させるだけで足ります。

傾く原因は、四つに整理できる

物理が分かったところで、実際の原因に移ります。USRowing の用語集は、 set に影響するものを四つ挙げています。ハンドルの高さ/漕手の傾き/コンディション/タイミング。 この四つで、たいていの場面は説明がつきます。

  1. ① ハンドルの高さ — いちばん直接的な原因
    左右の手の高さが違えば、艇はそのまま傾きます。USRowing のコーチ教本は「艇のロール(左右の揺れ)を抑えるには、両手をほぼ同じ高さに保つ必要がある」と明記しています。スカルでは手が重なるので、その重なりで軽く触れる程度が目安。専門メディアの解説は「自分の手の高さが水平なほどセットは良くなり、周りの漕手も自分の手の高さに取り組みやすくなる」とも書いています。
  2. ② 体の傾き — 頭は、思ったより重い
    カナダの統括団体の技術モデルは、リカバリー中は「肩と頭の動きを直線的に保つ」「頭は水平に保つ」と繰り返し指示しています。頭が左右に傾けば、その重さがそのまま艇に乗ります。同じ資料は、シートの上で左右均等に体重を配ることも安定の条件に挙げています。
  3. ③ コンディション — 自分のせいではない部分
    風や波でも艇は傾きます。逆に、カナダの初心者向け資料は「艇速そのものがバランスを助ける。特に風や波のある日は顕著」と書いています。止まっていると揺れるのに、走り出すと落ち着く——あの感覚には理由があります。
  4. ④ タイミング — クルーで漕ぐときの要因
    抜くタイミングが左右・前後でずれると、残った側に艇が引かれます。専門メディアの診断記事は「リカバリー初めのタップダウンの量が左右で違うと、キャッチでの手の高さも不揃いになる」と、ずれが連鎖することを指摘しています。

そろえると速い、とは限らない

「クルーの動きを完全に揃えれば、艇は安定して速くなる」。よく聞く話で、 直感にも合います。ここに、面白い研究があります。

ダブルスカル15クルーを、レートを変えながら計測した2017年の査読論文です。 タイトルは直訳すると「艇を揺らす——完璧なクルーの同調は、艇の不要な動きを 減らすのか?」。結果は、こうでした。

同調が良いほど、左右の傾き(ロール)は
減る
同時に、前後・上下・ピッチの変動は
増える
計測したクルー
15
ダブルスカル15クルー(30名)を、レート18・22・26・30・34 spm の5条件で計測した研究(2017年)。オールの角度と艇の動きを毎秒200回記録しています。著者らは「同調が良いほど横方向の安定は増すが、他の艇の動きは増え、力学的効率はむしろ下がる」と結論しています。艇種・レート・クルーで変わる可能性があり、ロールを扱った研究自体がまだ非常に少ないことにも注意が必要です。

つまり、揃えることで左右の揺れは減るが、その分だけ前後や上下の揺れが増える。安定は「ただで手に入るもの」ではなく、トレードオフの中にある、ということです。

これは「揃えなくていい」という意味ではありません。艇の上で 左右に揺れていては、そもそもブレードを狙った深さに入れられない。 ただ、「完璧に揃えさえすれば全部よくなる」という単純な話ではないことは、知っておいて損がありません。オンウォーターの生体力学をまとめた 2024年のレビューも、ロール(左右の傾き)を扱った研究は実質1件しかなく、 この分野は始まったばかりだと述べています。

体幹は効くのか — 正直に書きます

「セットには体幹が大事」。これも、艇庫でよく聞きます。どこまでが 裏づけのある話なのか、公開資料を当たってみました。

言えること。カナダの統括団体の技術モデルは、フィニッシュ局面について 「腰まわりと体幹が、腕がハンドルを引くための土台になる」と書いています。 USRowing の教本も「フィニッシュでのしっかり支えられた体幹が、 良いリリースの鍵」としています。エルゴでの計測研究では、ハンドルのパワーを いちばんよく説明したのは体幹のパワーでした。 体幹が、脚で生んだ力をハンドルへ受け渡す中継点だ、という説明には 複数の裏づけがあります。

もう一つ、意外なことも書いておきます。World Rowing の腰痛対応ガイドは、 背中とお尻(後面)の持久力を重視する一方で、「プランクのような静的な種目は役に立たない可能性が高い」としています。「体幹=プランク」という現場の常識に、統括団体自身が 留保をつけているわけです。

姿勢については、比較的はっきりしています。同じ World Rowing のガイドは、 骨盤を立てて坐骨の上に座り、腰を平らで垂直に保つことを勧めています。腰を反らして胸を突き出すのは、この方向ではありません。 背中の話は腰痛の予防に詳しくあります。

直すための練習

最後に、実際に何をするか。英国ローイング連盟のコーチ教本は、バランス系の ドリルを「自信とバランス」という独立したカテゴリーにまとめています。恐怖心を取ることが、技術と同じくらい重視されているのが特徴です。

  1. リガーディップ — 傾けても大丈夫だと知る
    わざと片手を上げ、片手を下げて艇を傾け、スイベルの底が水に触れるまで沈めます。教本が挙げる目的は二つ。手の高さとバランスの関係を理解すること、そして「艇が左右にどれだけ動いても完全に安全だと漕手が理解すること」。まず怖さを取る、という発想です。
  2. ハンドサークル — 手の距離が効くことを体感する
    ブレードを水面に平らに置いたまま、両手で円を描きます。両手の距離がバランスにどう効くかを体感するためのドリル。30秒で何回できるか数えて、ゲームにできます。
  3. 止まって確かめる(ポーズドリル)
    フィニッシュ、ハンズアウェイ、上体を戻した位置、1/4・1/2スライド……と決めた点で止まり、その位置での手の高さを保ちます。British Rowing はこのドリルの目的を「リカバリーの順序が正しいか、クルーが揃っているか、そして全ての点で手とブレードの高さがバランスのために正しいか」を確かめることだと定義しています。
  4. レートをうんと落とす
    British Rowing は、レートを「1桁台」まで落として漕ぐことを挙げ、そのねらいを「艇が足の下を走るのを感じ、バランスを保つこと」としています。速く漕ぐほど誤魔化せるので、遅くすると問題が見えます。
  5. 半分だけ漕ぐ
    USRowing の教本は「ドリルが成立するには艇のバランスが要る。だから一部の漕手だけが漕ぎ、残りが艇を支える形にする」と明記し、「代表チームですら6人単位でやる」と付け加えています。うまくいかないときは、まず支えてもらってからで大丈夫です。

直す順番についても、World Rowing の指導者教本に原則があります。まずブレードと艇の動きを見てから、体の動きを見る。そして、エラーが出ている局面ではなく、その一つ前の局面に原因がないかを判断する。フィニッシュで崩れて見えるものの原因が、ドライブの途中にあることは 珍しくありません。専門メディアの診断記事も、低いレートに落として 「いつ・どちら側に落ちるか」から原因を逆算することを勧めています。

次の練習で試せる一歩

持ち帰るのは、三つで足ります。

一つめ。艇は放っておけば倒れる。それを毎回立て直しているのが 漕手です。傾いたことを自分の才能の問題にしないでください。

二つめ。直すなら、まず手の高さ。左右の手を同じ高さに保つ。 それだけで多くが変わります。次に頭の位置——頭は思ったより重く、 傾ければそのまま艇に乗ります。

三つめ。直らないときは、艤装と、一つ前の局面を疑う。 スイベルの高さが左右で違うだけでも艇は傾きます。そしてフィニッシュの崩れは、 その手前で起きていることの結果かもしれません。ひとりで抱えず、 指導者に見てもらってください。

バランスはオールで取るものではなく、体で取るもの。 そして、怖くなくなることが、いちばんの上達です。