こぎだし

TRAINING

鉄と貧血、そしてエネルギー不足 — 疲れやすさの奥にあるもの

練習がきつい。息が上がる。前より重い。——その理由を「鉄が足りないからだ」と決めてしまう前に、確かめておきたい順番があります。

読了目安6分レベル基礎公開日2026.07.14
上皿天秤の左の皿にごはんと青菜の食事、右の皿にローイングのオールのブレードがのり、ほぼ釣り合っている、クリーム色の紙にネイビーの線画

ボートは、長い時間ずっと大きな筋肉を使い続ける競技です。だから 「酸素をどれだけ運べるか」がそのまま練習の質に効いてきます。その酸素を運ぶのが、 赤血球の中にあるヘモグロビン(血液の中で酸素を運ぶたんぱく質)であり、 その材料のひとつが鉄です。持久系の競技で鉄の話題が絶えないのは、この一本の線があるからです。

ただ、現場でよく起きる取り違えがあります。「疲れやすい=鉄が足りない=鉄を足せばよい」と、三つの段を一気に飛び越えてしまうこと。この記事は、その段をひとつずつ下ろしていくためのものです。

なぜ、持久系の競技で鉄が話題になるのか

鉄が不足した状態が進むと、ヘモグロビンが十分に作れなくなり、 全身に運べる酸素の量が減ります。これがいわゆる貧血です。一般に、 動悸・息切れ・疲れやすさといった感じ方や、持久力が落ちるといった変化が 起こりうると説明されています。

漕手で話題になりやすいのには、いくつかの背景があるとされます。汗・尿・便から 鉄はわずかずつ失われ続けること。練習量が多いほどその損失も積み上がること。 そして、身長が大きく伸びる成長期や、月経のある人では、体が必要とする量そのものが増えること。 どれも「鉄の出入り」が忙しくなる方向に働きます。

つまり最初の一歩は「鉄を足す」ではなく、「調べる」です。そしてもうひとつ、 鉄より上流にある問いがあります。

そもそも、エネルギーは足りているのか

国際的な公開ガイドラインが、この十数年でいちばん強く言うようになったのが、利用可能エネルギー不足(低エネルギー可用性)という考え方です。 食事から取り込んだエネルギーから、練習で使ったエネルギーを差し引いた残り。 つまり、体を動かす以外の仕事(血を作る、骨を保つ、ホルモンを整える、免疫を働かせる、 背が伸びる)に回せる分が、足りているかどうか、という見方です。

研究では、この残りを除脂肪体重(体重から脂肪を除いた重さ)1kgあたりの1日量として 表してきました。下の目安は、その研究のなかで繰り返し参照されてきた水準です。

影響が出やすいとされる水準
30kcal/kg・日
余裕があるとされる水準
45kcal/kg・日
「kg」は除脂肪体重1kgあたり、「日」は1日あたりを指します。おおむね30を下回る状態が続くと体の機能に影響が出やすく、45前後あれば余裕がある——とされてきた研究上の目安で、主に女性を対象とした研究から示された値です。体格・年齢・成長段階・練習量・競技によって大きく変わり、個人差もあります。自分で計算して健康状態を判定するための数値ではありません。

国際オリンピック委員会(IOC)は、この状態が長く続いたときに健康と競技力の 両方に広く影響が及びうる現象を REDs(レッズ。Relative Energy Deficiency in Sport / スポーツにおける相対的エネルギー不足)と呼び、 2023年に最新のコンセンサス・ステートメントを公表しました。そこでは REDs を、女性にも男性にも起こりうるものとして明確に位置づけています。 「女子選手だけの話」ではありません。

もうひとつ、覚えておきたい点があります。エネルギー不足は、 意図的な減量や摂食障害がなくても起こりうる、ということ。練習量が増えたのに 食べる量が前のままだった。合宿で食べる時間が取れなかった。それだけで、 差し引きの残りは簡単に痩せていきます。

体重を落とすことと、食べる量を減らすことは、同じではありません。

女性アスリートの三主徴と、その先

エネルギー不足の話は、もともと女性アスリートの三主徴—— エネルギー可用性、月経の状態、骨の状態、この三つが互いにつながっているという 枠組みから広がってきました。米国スポーツ医学会(ACSM)が示したこの考え方では、 三つはそれぞれ「健康」から「不調」までの帯の上のどこかにあり、 その帯の上流にあるのがエネルギー可用性だと整理されています。

月経が止まる・間隔が乱れるといった変化を、「練習を頑張っている証拠」と受け取るのは危険です。 体が使えるエネルギーを削って調整している、というサインとして受け止められるように なってきました。骨の状態も同じ帯の上にあります。

ただし、月経の状態には個人差があり、原因も一つではありません。 気になる変化があるときに必要なのは、記事を読み込むことではなく、 婦人科をはじめとする医療機関に相談することです。ここで断定できることは何もありません。

成長期と軽量級で、とくに気をつける

エネルギー不足が起こりやすい場面は、ボートの現場にはっきりあります。

ひとつは成長期。身長が伸びている間、体はその工事のために 相当なエネルギーと材料を使っています。そこへ練習量が一段上がると、 差し引きの残りは削られます。中学・高校で漕ぎ始めた選手が、 練習を増やした学期にかぎって伸び悩む。そのとき最初に疑うべきは、エネルギーの収支です。

もうひとつは軽量級(体重に上限を設けた出場区分)。 上限があるということは、体重を意識する時間が長くなるということです。 減量そのものが悪なのではなく、減量とエネルギー不足が重なりやすいことが問題になります。 とくに、大会直前に短期間で体重を落とす方法は、競技力そのものを損なう可能性が 指摘されてきました。計量に間に合わせることと、速く漕げることは、 別々に管理しなければ両立しません。

そして軽量級の計量や体重区分の基準は大会ごとに定められています。 最終的な条件は、必ずその大会の要項と最新の公式規則で確認してください。

鉄剤・サプリメントを、自己判断で使わない

検査もせずに鉄のサプリメントを飲み始める。 先輩が飲んでいるから同じものを買う。この道筋を選ばないでください。

鉄は、足りなければ困る一方で、体には積極的に捨てるしくみが乏しい元素です。 必要のない補給を長く続ければ、体に溜まっていく方向に働きます。 日本の公的な基準(厚生労働省の食事摂取基準)でも、推奨量を大きく超える鉄の摂取は、貧血の治療などを目的とする場合を除いて控えるべきと明記されています。「食品からなら安心」「上限の数値が示されていないなら大丈夫」 という読み方は、この記述とかみ合いません。

国内の競技界には、この問題が現実に起きた歴史があります。日本陸上競技連盟は 2016年に「アスリートの貧血対処7か条」を公表し、食事から適切に鉄をとること、 そして鉄のとりすぎに注意することを、並べて呼びかけました。さらに2019年には、 中学生・高校生の長距離選手にまで広がっていた注射による鉄の投与を受けて、 「不適切な鉄剤注射の防止に関するガイドライン」を策定・公表しています。

ここに、海外の枠組みと比べたときの輪郭が見えてきます。 IOC の REDs のように、海外の公開ガイドラインは「そもそも食べる量が足りているか」という上流から問いを立てます。 対して日本の現場で長く語られてきたのは、鉄という一点への対処で、 しかも注射という強い手段にまで届いてしまいました。 鉄の値は、上流で起きていることの結果として動くことがあります。 結果だけを押し戻そうとすると、原因はそのまま残ります。

では、気になったときは何をすればよいのか。順番はとても単純です。

  1. 記録する
    いつから、どんなときに疲れるのか。練習量、食事の量と回数、睡眠、体重の動き。1〜2週間分をメモにする。診察のとき、この記録がいちばん役に立つ。
  2. 指導者に伝える
    隠さない。練習量を落とす判断も、食事の環境を整える判断も、伝えなければ始まらない。
  3. 医療機関で相談・検査を受ける
    貧血かどうか、鉄の状態がどうか、ほかの原因がないか。判断できるのは医療者だけ。市販のサプリメントで様子を見る、を先に置かない。
  4. 医療者と、食事から立て直す
    必要な治療の判断は医療者が行う。並行して、練習量に見合うエネルギーと食事の中身を、可能なら管理栄養士とともに組み直す。

遠回りに見えるかもしれません。けれど、この順番が、いちばん速く元の漕ぎに戻る道です。