アンチドーピング(ドーピングを防ぐための国際的なルールと取り組み)と聞くと、 自分にはまだ関係のない、遠い世界の話に思えるかもしれません。 けれど、このルールがいちばん静かに、いちばん理不尽に人を傷つけるのは、 勝つために手を出した人ではなく、風邪をひいて薬局で薬を買っただけの人です。
この記事では、制度の考え方と、調べ方の入り口だけを扱います。 どの薬やサプリメントが使えるか——それは、この記事が決められることでは ありません。判断はいつでも公式の窓口に預けてください。
何のためのルールか
ドーピングを禁じる理由は、ひとつではありません。 国際的な枠組みでは、禁止表(禁止される物質と方法の一覧)に何を載せるかを、 三つのものさしで検討し、そのうち二つ以上に当てはまるものを対象とする、 という考え方が取られています。
- 競技力を高める、または高めうること努力や才能ではないところで差がついてしまう。フェアネスの問題。
- 競技者の健康に害を及ぼす、または及ぼしうること勝つために体を壊す選択を、競技が強いてはならない、という考え方。
- スポーツの精神に反することスポーツが何のためにあるのかという、価値そのものへの問い。
禁止表は毎年見直され、新しいものが1月1日に発効します。 去年の理解が今年も正しいとは限らない。ここが、この分野の一番厄介なところです。 だからこそ、覚えようとせず、そのつど調べるのが唯一の正解になります。
「うっかりドーピング」はなぜ起こるか
意図せずに禁止物質を体に入れてしまうことを、日本では「うっかりドーピング」と 呼び慣わしています。入口として、よく知られているものが二つあります。
ひとつは、市販薬・処方薬です。薬は病気を治すために作られており、 競技のルールに合わせて作られてはいません。 風邪や花粉症、けがの痛み止めのように、ごく日常的な場面で手に取る薬が、 結果として問題になることがあります。
もうひとつは、サプリメントです。ここには構造的な落とし穴があります。 サプリメントは法律上「食品」として売られており、 日本アンチ・ドーピング機構(JADA)は、食品には全ての原材料を成分表に記載する 義務がない、と説明しています。つまり、表示を読み切っても、入っているものが全部わかるとは限らないのです。
これは理屈の上の話ではありません。実際に、市販のサプリメントを買い集めて 分析した研究がいくつも公開されています。
この数字が示しているのは、表示だけを信じる根拠は弱い、という一点です。だから、口に入れる前に調べる習慣を持つ。 話はそこに尽きます。
厳格責任 — 体内に入ったものの責任は、競技者本人にある
アンチドーピングの制度を貫いているのが、 厳格責任(strict liability。体内から禁止物質が見つかったとき、 それがどう入ったか、だますつもりがあったかにかかわらず、 責任は競技者本人にあるとする原則)という考え方です。
World Rowing(国際ボート連盟)も、UK Anti-Doping(英国アンチ・ドーピング機構)も、 ほぼ同じ言い方でこれを説明しています。どうやって体内に入ったかを問わず、 だますつもりの有無も問わず、競技者が責任を負う。 「知らなかった」は、成立の理由になりません。
冷たく聞こえるかもしれません。ただ、この原則がなければ、 誰もが「知らなかった」と言えてしまい、検査そのものが成り立たなくなります。 事情に応じて処分の重さが調整される仕組みは別に用意されていますが、 その事情を示す責任もまた、競技者の側にあります。
調べるのは、疑われないためではありません。自分の競技を、自分で守るためです。
治療が必要なときのために — TUEという制度
では、病気やけがの治療に、どうしても禁止された物質が必要になったら。 そのために TUE(治療使用特例。治療上の必要から、例外的に使用の許可を 申請できる制度)が用意されています。
TUE には満たすべき条件が定められており、申請先も競技レベルによって 変わります。国内レベルの競技者は国内のアンチ・ドーピング機関へ、 国際レベルの競技者は国際競技連盟や国際検査機関へ、というのが大枠です。
大切なのは、こういう制度が存在すると知っておくこと、そして必要になりそうなら事前に、公式の窓口へ相談することです。手続きの詳細と最新の条件は、この記事ではなく公式の情報で 確認してください。
調べ方を、ひとつの習慣にする
覚えることは多くありません。次の流れをひとつ持っておけば、 迷う場面のほとんどは通過できます。
- 受診・購入のとき、自分から競技者だと伝える医療者が禁止表を把握している前提に立たない。伝えるのは競技者の側の仕事。
- 薬は Global DRO で調べるGlobal DRO(グローバル・ドロ。薬の使用可否を調べるための公式検索サービス)は、日本を含む7カ国に対応している。買った国を正しく選ぶこと。同じ商品名でも国が違えば中身が違うことがある。検索ごとに参照番号が出るので、控えを残しておく。
- サプリメントは Global DRO では調べられないと知っておく公式FAQが、サプリメントや類似の市販品は対象外だと明言している。薬と同じ方法では確認できない、という前提から出発する。
- 判断に迷ったら、人に聞くJADA(日本アンチ・ドーピング機構)の情報にあたる。日本には、アンチドーピングの知識を学んだ薬剤師である公認スポーツファーマシストの制度があり、検索して相談先を探せる。チームに担当者がいれば、その人にも必ず共有する。
- 治療で必要になりそうなら、TUEの手続きを事前に確認する使ってしまってから調べるのでは間に合わない。順番を逆にしない。
調べる先は、いつでも公式です。JADA の公開情報(playtruejapan.org)と Global DRO(globaldro.com)。この二つを、部のスマートフォンのブックマークに入れておくだけで、 チームの安全度は変わります。
覚えておきたいこと
アンチドーピングは、真面目に漕いできた人が、 真面目に漕いできたというだけで評価される、 その土台を守るための仕組みです。
そして、その土台を守る具体的な行動は、たったひとつに集約できます。わからないまま、口に入れない。調べる。聞く。それから決める。この順番を崩さないことです。
