熱中症は、起きてしまってから取り返すのが難しい一方で、起きる前に手を打てる範囲が広いという、めずらしい性質を持っています。国際的な合意声明でも、多くは事前に分かっている 危険要因を見つけて減らすことで防げる、という言い方がされています。だからこの記事は、 暑い日に何を見て、何を用意しておくかの話です。
この記事で扱うのは、考え方までです。実施・中止の判断は、公式の指針と、主催者・指導者のものです。
水上の暑さは、気づきにくい
ローイングの暑さには、この競技だけの事情がいくつもあります。まず、コースの上には日陰がありません。木も屋根もなく、水面は日射を照り返します。次に、艇は進み続けるので、体にはつねに 風が当たります。汗はどんどん乾き、涼しく感じることさえある。ところが汗が乾くこと 自体は熱を逃がす仕組みそのもので、乾いた分だけ体からは水が失われています。涼しく感じているのに脱水が進んでいる——これが、水上でいちばん危ない組み合わせです。
そのうえ、艇の上では飲むタイミングが限られます。ボトルは艇に積んで出ますし、 コックス(舵を取り、クルーに指示を出す人)が乗る艇ならコックスが足元に まとめて置いていることも多い。ただし漕いでいる最中は両手が塞がっていて、 飲めるのはメニューの区切りや周回の折り返しなど、手が空いた瞬間だけです。 エルゴメーター(ローイングマシン)のように、渇いたら手を伸ばす、とはいきません。 乗艇(水の上での練習)が一度始まれば、岸に戻るまで一時間以上かかることも普通です。
レガッタ(ボートの大会)になると、また別の顔が出てきます。レースそのものより、待ち時間のほうが長い。艇の準備、招集、乗艇待ち、レース後の陸上での待機。日向に立ち続けるこの時間に、 体はじわじわ熱を蓄えていきます。艇庫や河川敷という場所も、たいていは日陰が少なく、 自動販売機も水道も遠い。暑さ対策は、漕ぎ出す前から始まっています。
気温ではなく、暑さ指数(WBGT)で見る
暑さの危険を測るとき、世界共通で使われているのが暑さ指数(WBGT。湿球黒球温度ともいい、湿度・日射などの熱・気温をまとめて 一つの数字にした指標)です。1954年にアメリカで熱中症予防のために提案され、いまはISO(国際規格)や JIS(日本産業規格)として規格化されています。単位は気温と同じ「度」ですが、気温とは別物の数字です。ここを取り違えると、判断そのものがずれます。
環境省の解説によれば、屋外の暑さ指数は 湿球温度・黒球温度・乾球温度を次の比率で組み合わせて計算されます。気温が占める割合を 見てください。
暑さ指数は、ほとんど「汗が蒸発できるかどうか」を測っている数字です。湿度が高ければ汗は乾かず、体は熱を捨てる手段を失います。 気温の数字が思ったより低い日でも、安心の材料にはなりません。
そしてもう一つ。暑さ指数は測る場所で変わります。日陰の艇庫の軒下と、日射しを照り返す水面の上とでは、同じ時刻でも同じ数字にはなりません。 World Rowing(国際ボート連盟)の暑熱ガイドラインは、この点について具体的な推奨を 置いています。
暑さ指数の実測値が手元にない場面のために、気温と湿度から注意の段階の目安を見る暑熱リスクの目安を用意しています。ただし、暑さ指数そのものの計算や、実測値の代わりにはなりません。 実測値と公式の指針が、いつでも先です。
日本の指針と、海外のガイドラインを重ねる
日本には、暑さ指数に応じて運動をどうするかを段階で示した日本スポーツ協会の「熱中症予防運動指針」があります。「ほぼ安全」から「運動は原則中止」まで、暑さ指数の値ごとに段階が分かれて いて、いちばん上の段階では運動は原則中止とされています。環境省の熱中症予防情報 サイトでは、全国各地の暑さ指数の実測値と予測値が公開されており、この指針と 組み合わせて使えるようになっています。
段階ごとの正確な区切りと文言は、ここでは書きません。基準は改訂されることがあり、 転記した数字を頼りにされると、かえって危ないからです。実際に使うときは、必ず環境省の熱中症予防情報サイトと日本スポーツ協会の公式資料で、 最新のものを確認してください。
World Rowing の暑熱ガイドラインを読むと、日本の指針との視点の違いがはっきり見えてきます。日本の運動指針が「この暑さのとき、運動する側はどう振る舞うか」 を段階で示すのに対して、World Rowing の文書は、大会を開く側・練習をさせる側が、何を用意する義務を負うかにまで踏み込んでいます。日陰の休憩場所を用意すること。医務室に氷と水と扇風機を 置くこと。暑い日は審判やボランティアも交代させること。暑さが極端なときはコースを いちばん暑い時間帯(おおむね昼前から午後の早い時間)に閉じること。プログラムの 組み替えを検討すること。順化ができていない時期であれば、子どもやマスターズといった リスクの高いカテゴリーを先に外すという選択肢まで書かれています。
そして、暑さへの備えとしてもっとも重要な対策として挙げられているのが、暑熱順化(暑さに体を少しずつ慣らしていくこと) です。しかも、順化が必要なのは漕手だけではない、と明記されています。審判も、役員も、 ボランティアも含めて、です。炎天下に一日立ち続ける人たちが倒れることを、 ガイドラインは最初から視野に入れています。
冷やし方についても、日本と海外は近づいてきています。ACSM(米国スポーツ医学会)が 2023年に公表した合意声明は、疑わしい症状に早く気づき、運動をやめさせ、全身を素早く冷やすことが生き延びるために欠かせないとしています。NATA のステートメントも、「まず冷やす、搬送はその後(cool first, transport second)」という原則を掲げます。World Rowing のガイドラインも同じ原則を採っています。
日本側も同じ方向を向きました。日本スポーツ協会は『スポーツ活動中の熱中症予防 ガイドブック』を2025年に第6版へ改訂し、「熱中症予防5ヶ条」の第4条を「冷やそう、からだの外から内から」に差し替えています。以前の第4条は服装についての条文でした。身体を冷やすことが、 予防の5つの柱の一つとして正面に据え直されました。国際的な流れと、日本の指針が 合流したと言っていいと思います。
艇庫と河川敷でできる備え
ここまでの話を、一日の流れに並べ直します。特別な道具はほとんど要りません。
- 前の日に、暑さ指数の予測を見る環境省の熱中症予防情報サイトで、翌日の暑さ指数の予測が確認できます。氷・水・日陰の準備は、前の日のうちに決まります。
- 当日、体調を一人ずつ確かめる睡眠不足、前日の飲酒、体調不良、暑さに慣れていない時期。これらがリスクを高めることは、公開ガイドラインでいずれも指摘されています。持病のある人、薬を飲んでいる人は、あらかじめ指導者に伝えておく。
- 漕ぎ出す前に、水を積む・帽子を濡らす艇の上では補給が難しい。だからこそ、乗る前に飲んでおき、艇に積める分は積む。直射日光の下では帽子をかぶり、水で濡らす。World Rowing のガイドラインが挙げている、すぐできる工夫です。
- 時間帯をずらす、内容を変える暑い日は朝と夕方に練習をずらすことが、海外のガイドラインでも一貫してすすめられています。中止のほかに、時間・距離・強度を変える選択肢もあります。
- 乗艇中は、休憩と声かけを設計に入れる水の上では異変に気づきにくい。コックス(舵をとり指示を出す人)や伴走艇からの声かけ、こまめな漕ぎやめと補給を、あらかじめメニューに組み込んでおく。
- 上陸したら、まず冷やす日陰に入り、水で体を冷やす。艇の片づけより先に、人を冷やす。暑い日にそのまま横になるのは、かえって危ないことがあります。
- レガッタの待ち時間を、あらかじめ設計するテント、日陰、氷、冷たい飲み物、涼める場所。長いのはレースより待ち時間です。ここに手当てを置くことが、大会での暑熱対策の中心になります。
暑さのなかで一番よく効く道具は、氷でも扇風機でもなく、前の日に決めておいた段取りです。
熱中症のなかでも重いものは、命に関わる緊急事態です。国際的なガイドラインが「まず冷やす、搬送はその後」と言い切るのは、体温が高い時間の長さが、その後を左右するからです。この記事では、具体的な処置の手順は扱いません。 現場での対応は、指導者・主催者・医療者の指示に従ってください。そして、様子がおかしい と感じたときは、判断を先延ばしにしないでください。
