レース前に、心臓が速くなる。手が震える。トイレが近くなる。これは弱さでも、 練習不足でもありません。競技をする人なら誰にでも起きる、ごく自然な反応です。 まず、そこから始めましょう。緊張を消すことはできませんし、 消す必要もありません。
この練習が目指すのは、緊張しても迷わないことです。 苦しさのピークで、頭は冴えません。だからこそ、そのときに何をするか (呼吸、自分にかける言葉、レース前の手順)を先に決めておく。 決めてあれば、本番で考えずに済みます。これは基礎レベルの練習で、 必要な時間は1回5〜20分ほど。エルゴメーター(ローイングマシン)でも、 艇の上でも、家でもできます。
先に、この記事の範囲をはっきりさせておきます。ここで扱うのは、本番で力を出すための心の技術(パフォーマンス心理。競技の場面で実力を出す ための考え方を扱う分野)、つまりレース前の緊張との付き合い方です。心の不調そのものの対処ではありません。続く不安、気分の落ち込み、眠れない日が続く。そうしたことは、この練習メニューの 範囲を超えます。具体的な心理療法や診断には立ち入りません。気になることがあれば、 医療者や専門家に相談してください(末尾の但し書きも参照)。また、なぜ眠ると心まで 整うのか、といった体の科学は 睡眠とリカバリー にゆずり、この記事は「何を、どれだけ」に徹します。
目的 — 決めておけば、迷わない
レースの後半、酸素が足りず、視界が狭くなってくる時間帯を思い出してください。 あの状態で、冷静に良い判断をするのは、ほとんど無理です。だから、この練習の狙いは 「苦しい中でも賢く考えられるようになること」ではありません。狙いは逆で、苦しい中では考えなくて済むように、あらかじめ決めておくことです。
World Rowing(国際ボート連盟)の公開記事で、2023年の世界最優秀コーチに選ばれた フランチェスコ・フォッシは、「心が体を導いている」と述べ、 選手の心の面は変えられるけれど「多くの時間と労力がかかる」と語っています。 つまり、メンタルは生まれつきの根性ではなく、時間をかけて育てる技術だ、 という位置づけです。彼自身、レース前の恐れを前向きなエネルギーに置き換えてきた、 とも話しています。
置き換えの手がかりになるのが、ルーティン(決まった手順。いつも同じ順番で やること)とセルフトーク(自分にかける短い言葉)です。 公開されている研究では、準備のルーティンは注意を「今やるべきこと」に向け直し、 動作を自動的に引き出す働きがあるとされ、セルフトークもまた、感情の反応を整えて プレーを自動的に運ぶために使われる、と整理されています。 それが、根性に頼らないという意味です。
所要時間 — 短く、そして繰り返す
このメニューに、長い時間は要りません。大事なのは1回の長さより、繰り返した回数です。呼吸も、言葉も、手順も、本番で自動的に 出てくるようにするには、静かなときに何度も通しておくしかありません。 やっていないことは、いちばん苦しい場面では出てきません。
いちばん良いのは、ふだんの練習の一部に混ぜてしまうことです。 ウォームアップの決まった一角で呼吸を整え、きつい一本の前に合図の言葉を一度だけ言う。 そうやって毎日触れておけば、レース当日に特別なことをせずに済みます。
強度 — いちばん静かな練習。使うのは、いちばん苦しいとき
体の強度でいえば、これは練習の中でいちばん静かな部類です (このライブラリの区分でも、最も軽い「整える」に置いています)。息を切らして やるものではありません。むしろ、落ち着いているときに練習しておくことに意味があります。苦しくなってから呼吸の型を思い出そうとしても、間に合わないからです。
ところが、この静かな練習が実際に使われるのは、いちばん強度が高い場面です。スタートの数十本、ラストスパート、レースペースを保つ苦しい中盤——判断がいちばん 鈍る、あの領域。強度そのものの地図(どの帯がどれくらいきついか)は 強度ゾーンの読み方 にまとめてあります。ここで覚えておきたいのは一つだけ。静かなときに仕込んで、苦しいときに使う。この順番です。
実施方法 — 三つを、先に決めておく
決めておくものは、多くありません。呼吸・合図の言葉・レース前の手順の 三つ。これに「崩れたときの戻り先」を一つ足して、四手で組み立てます。 どれも道具は要りません。要るのは、先に決めて、繰り返しておくことだけです。
- 呼吸を、先に決める苦しくなってから呼吸を思い出すのでは間に合いません。先に型を一つ決めておきます。要点はふたつ。「いつもよりゆっくり」と「吐く息を、吸う息より長く」です。ゆっくりした呼吸は、体を落ち着ける側の神経(副交感神経)に傾きやすいことが、健康な人を対象にした公開レビューで報告されています。数を数える型(たとえば4つ吸って6つ吐く)でも、吐くのを長くするだけでも構いません。静かなときに通しておきます。
- 合図の言葉を、先に決める苦しいと、頭の中の言葉は勝手に暗くなります(「もうダメだ」「脚が終わった」)。 そこへ置き換える短い言葉を、先に一つか二つだけ決めておきます。これは セルフトーク(自分にかける言葉)と呼ばれ、32件の研究をまとめたメタ分析で、 運動の成績を中程度に押し上げることが報告されています。言葉は二種類。 動作を思い出す言葉(「長く」「押す」「前で待つ」)と、力を引き出す言葉 (「ここから」「粘る」)です。米国のパフォーマンス心理の専門団体(AASP)は、 「strong(強く)」「smooth(なめらかに)」のような一語を例に挙げています。 自分の一語を決めておきます。
- レース前のルーティンを、先に決める艇を出してから最初の一本までを、いつも同じ順番にします。ウォームアップ、水分、合図の言葉の確認、呼吸。順番を固定しておくと、緊張していても手が勝手に動きます。大きな大会だからといって、いつもと変える誘惑に負けないこと。前掲の専門団体は「難しい試合ほど、ルーティンを変えないこと」を勧めています。正解は人それぞれ違う(研究でも、準備のルーティンは選手ごとに固有だとされます)ので、他人の真似ではなく、自分の落ち着く順番を、ふだんの練習で作ります。
- 崩れたら、今の一本に戻すそれでも、レース中に心は勝手に先へ飛びます(「あと何本」「負けるかも」)。そのとき戻る先を、一つ決めておきます。たいていは「今、この一本」です。準備のルーティンやセルフトークは、注意を今やるべきことへ向け直し、よけいなものを締め出すために働く、と公開資料は説明しています。先へ飛んだと気づいたら、決めた一語を言って、今の一本に戻る。それだけで十分です。
根性は、いつか尽きます。先に決めておいた一つの言葉と、一つの呼吸は、尽きません。
注意点 — これは、心の不調の対処ではない
いちばん大事な線引きから。ここで扱ってきたのは、本番の緊張という、健康な人にも起きる反応との付き合い方です。心の不調そのものを治すものではありません。レース前の一時的な緊張と、日常的に続く不安・気分の落ち込み・眠れなさは、別のものです。 後者が続くなら、それは練習メニューの範囲ではなく、医療者・専門家に相談することです。この記事は、具体的な心理療法や 診断には立ち入りません。
呼吸についても一つ。ゆっくり吐くのは有効ですが、頑張って息を止めたり、無理に深く吸いすぎたりしないこと。 めまいや、かえって息苦しくなる感じがあれば、それは合図です。すぐにやめて、 いつもの呼吸に戻してください(末尾の但し書きも参照)。
そしてルーティンは、不安を減らすためのものです。 手順が複雑すぎて「ちゃんとできたか」が新しい心配の種になるなら、本末転倒です。 短く、少しくらい崩れても成り立つものにしておきます。
指導者向けポイント
見たいのは、それぞれの選手が、自分の呼吸と言葉と 手順を持っているか。そして、それをふだんから使えているかです。
