ストレッチャー(フットストレッチャー。足をかけて踏ん張る、艇の中の足留め板)は、 漕手の力がいちばん最初に艇へ伝わる場所です。ここを動かすと、キャッチ (ブレード=オールの水をかく平たい部分を、水に入れる一瞬)の姿勢も、脚の押し方も、 フィニッシュ(ブレードを水から抜く、一漕ぎの終わり)でのハンドルの位置も、 まとめて変わります。
調整するのは、おもに三つ。上下の高さ(ヒールデプス)、踏み面の角度 (ストレッチャー角度)、そして前後の位置です。この記事は、その三つを順番に 見ていきます。
ここには、単一の「正解」がありません。World Rowing(国際ボート連盟)の公式資料でさえ、数値が資料ごとに食い違います。 それは誰かが間違えているからではなく、正しい設定が体格・柔軟性・艇種で 一人ずつ変わるからです。この記事の値は、そのまま写して使う「答え」ではなく、 自分の艇で試すときの「幅」だと思ってください。リギング(艇のセッティング) そのものの基礎や測り方の道具はリギングの基礎に、数値を計算したいときはリギング計算機にあります。
ヒールデプス — 正解は、資料ごとに違う
ヒールデプス(シートから、ストレッチャーのかかとまでの垂直距離)は、 ストレッチャーの上下位置を表す数値です。深くする=ストレッチャーを下げる、 浅くする=上げる、と言い換えられます。いくつが良いのかを世界の公開資料で 実際に調べて並べると、こうなります。
数字だけ見ると「どれを信じればいいのか」と不安になります。でも、この四つはそもそも同じものを測っていません。
決め手について、どの資料も口をそろえるのは、身長ではないということです。Kiwi ガイドは「足が大きいほど数値も大きく」、SL Racing は 「すねが長いほどストレッチャーは低く(=深く)」、World Rowing の実務向け資料は 「脚の長さ、下腿と大腿の比、足首・股関節の柔軟性、体型」を挙げます。身長が 同じでも、すねの長さも足のサイズも人それぞれ。だから「175cmなら◯cm」という 早見表は、そもそも作れません。
艇種でも変わります。O'Neill は、同じ人でもシングルスカル(一人で2本のオールを 持つ小さな艇)なら浅めの側、エイト(八人で漕ぐ大きな艇)なら深めの側に置く、 としています。
深く、浅く — どちらが速いのかは決着していない
高さを動かすと何が変わるか。ここは、深い側と浅い側で、利点と欠点がちょうど 裏表になっています。
深くする(ストレッチャーを下げる)と、膝を下ろしやすくなり、水中でオールを引く長さ(ドロー)が伸びます。前傾して、 正しいキャッチの姿勢に入りやすくなる。ただし深くしすぎると、前で過度に縮こまり (オーバーコンプレッション)、レッグドライブ(脚で押す局面)が効率を失って、 資料は腰を痛めるリスクにも触れています。脚がデッキ(艇の甲板)に当たったり、 スライド(シートが前後に動くレール)で脚をすりむいたりも起きます。
浅くする(ストレッチャーを上げる)と、脚の蹴りが艇を進める方向により有効に使えます。逆に浅くしすぎると、上体を 前に入れきれず、脚だけに頼った短くて直立的なストロークになります。
深すぎても浅すぎても具合が悪い。その真ん中は、さっきの 「体格・柔軟性・艇種」で一人ずつ違う、という話に戻ってきます。
安全 — 拘束は「数値」ではなく「機能」で決まる
高さの話をすると、必ず出てくるのが「かかとの固定」です。ここは技術ではなく 安全の話なので、はっきりさせておきます。転覆したときに足が抜けること。それが、 すべてに優先します。
World Rowing の競漕規則は、この固定を数値ではなく機能で定めています。シューズが艇内に残る方式なら、各シューズをそれぞれ独立に固定し、かかとが水平の位置に達したときに足が抜けること。靴ひもやマジックテープなら、一本のつかみやすいストラップを片手で引く一動作で、すぐに解放できること。規則の文面そのものが、動きで書かれています。
その「別の数値」とは、かかとの浮き上がり量(踏み面から、かかとがどれだけ持ち上がってよいかの上限)のことです。
ここが取り違えられやすい。ヒールデプスを深くすること自体は、規則違反ではありません。制限されているのは「かかとの浮き上がり」であって、「シートからかかとまでの距離」 ではないからです。ただし実務では、ヒールデプスを変えたら、かかとの拘束紐(ヒールロープ)の長さを必ず測り直すこと。高さを動かせば、抜けやすさも変わります。
緊急脱出の規則そのもの(大会当日、桟橋の監視で何を見られ、前の日までに何を 確かめておくか)は、監視と航行規則に整理しています。最終的に効力を持つのは、公式の競漕規則と大会要項です。この記事は、 その手前の「考え方」までです。
ワークハイト — スイベルの高さと、左右差
ワークハイト(スイベル=オールを受ける金具の高さ。シートから、その金具の上面 までの高さ)も、高さの調整の一つです。World Rowing の Level II ハンドブックは、 一般に16〜18cmの範囲で測られるとしています(シートの最下点から、スイベルのシル= 水平アームの上面まで)。
高さの決め方は、キャッチのブレードを手がかりにします。O'Neill は、キャッチでブレードが完全に水没した状態で、腕が水平から6度下がりくらいの範囲に来るようにスイベル高さを合わせる、としています。あわせて、フィニッシュでハンドルが 漕手にとって楽な位置に来ること(たとえば腿に食い込まないこと)も条件に入ります。 入り口(キャッチ)のブレードの水没を主に見ながら、出口(フィニッシュ)のハンドルの 収まりも確かめる、という両にらみです。
現場でありがちな近道ですが、ワッシャー(スイベルの下に挟む輪)の枚数で高さをそろえないこと。Kiwi ガイドは「枚数を目安にするな、必ず測れ」と警告しています。同じ枚数でも、 金具や艇が違えば高さは変わります。
ストレッチャー角度 — 柔軟性と艇種で決める
踏み面の角度も、資料で割れます。ここでも「同じ World Rowing で食い違う」が 起きています。
決め手は、足首と股関節の柔軟性、そして艇種です。実務的な合わせ方として、SL Racing は 「すねを楽に垂直にできる、ただしぎりぎりの角度に合わせる」、Kiwi ガイドは 「キャッチで強い前傾(時計の1時くらいの前傾)を保ったまま、すねが垂直になる」ことを 目安にします。角度を寝かせすぎても立てすぎても、キャッチですねが垂直にならない。 そこが手がかりです。
前後位置 — 公式の数値は、ない
最後は前後位置です。ここは、いちばんはっきりしています。World Rowing の Level II ハンドブックは、前後位置の数値を一切示していません。示すのは原則だけ。「ストレッチャーの配置は、エントリー(キャッチ)とフィニッシュでの オールの位置を決める」「正しく揃ったフィニッシュ姿勢を保証しなければならない」。これは 調べ落としではなく、公式に推奨値が存在しないという、裏の取れた事実です。
現場の目安として公開資料にある実務基準は、フィニッシュでのハンドルと 体の間隔です。スイープ(一人が1本のオールを持つ漕ぎ方)ならハンドルが胸に拳1個分かぶる、スカルならフィニッシュで左右のスカルの間が拳1個分。拳2〜3個分ではありません。
そして前後位置では、ストレッチャーを安易に手前へ引きつけないことも大事です。
次の練習で、試せること
覚えることが多く見えますが、やることはシンプルです。
- まず、測るいまのヒールデプス・角度・前後位置を、基準点を決めて実際に測る。感覚や見た目ではなく、数値で今の位置を押さえる。
- 一度に一つだけ、動かす変えるのは一箇所だけ。三つ同時に動かすと、良くなったのか悪くなったのか、原因が分からなくなる。
- 変えたら、拘束紐を測り直すヒールデプスを動かしたら、かかとの拘束紐(ヒールロープ)の長さを必ず確認する。安全に関わる、いちばん大事な一手間。
- 前後の違いを、確かめる変える前と後を、自分の感覚とビデオで見くらべる。合わなければ、また一つだけ戻すか、別の一点を試す。
世界の一次資料でさえ、ここに一つの正解を置いていません。だから、迷うのは当然です。 大事なのは、幅の中で、自分の一点を見つけることです。
そのための数値の幅と測り方は、この記事に置きました。基準点を確かめ、両論を知った 上で、自分の体格と柔軟性、そして艇種に合わせて一点を選ぶ。合わなければ、また一つだけ 動かして試してください。
