スタートで起きることは、ぜんぶ決まっています。誰が、いつ、何を言い、クルーはそのとき何をしていなければならないか。それが分かっていないから、こわい。分かってしまえば、あとは合図を待って漕ぎ出すだけです。
この記事では、2024年4月版の競漕規則・細則が定めるスタートの手順を、条文の順ではなく時間の流れどおりに並べ直します。読み終わったときに残ってほしいことは、二つです。「1分前」という分読みは、来ない。そして「アテンション」から「ゴー」までの間は、毎レース変わる。
呼込み — 呼ばれてから、レーンに入る
スタートは、レーンに入るところから始まります。そしてレーンに入っていいかどうかを決めるのは、クルーではありません。
- 待機水域で待つ次のレースのクルーは、待機水域(スタート前のクルーが待つ場所)で待ちます。ここまでは、まだ自分たちの時間です。
- 前のレースが、スタートエリアを去る前のレースのクルーがすべてスタートエリアを去り、発艇員(スタートの号令をかける審判員)がスタートエリアの安全を確認します。この確認が終わるまで、呼込みは始まりません。
- クルー名が呼ばれる発艇員から、クルー名が呼ばれます。同時に、使用するレーンの割当てと、スタートまでの残り時間を告げられます。
- 許可を受けてから、レーンに入る発艇員が進入を許可する前に、競漕レーンに入ってはいけません(2024年4月版)。呼ばれる前に出ていくのは、手順の飛ばしです。
- 割り当てられたレーンに、すみやかに入るそして、割り当てられたレーン以外で練習してはいけません。ウォームアップのつもりで隣のレーンに漕ぎ入るのは、認められていません。
ステイクボート — 「ステッキボート」ではない
レーンに入ったら、艇をスタート位置に着けます。ここで使う設備には二つの形があり、そのうちの一つは、名前を間違えて覚えられていることがあります。
原則は、スタートポンツーンとスタートフィンガー
規則が原則としているのは、スタートポンツーンとスタートフィンガーです。スタートフィンガーは、各レーンに設けられた、前後に動かせる浮桟橋 (水に浮かぶ桟橋)のこと。ここに艇を着けて、艇首をスタートライン(発艇線)に一致させるのが原則です(2024年4月版)。
この設備には、もう一つの役割があります。規則は、スタートフィンガーに着けた艇の上のクルーが、発艇塔(発艇員が立つ塔)の発艇員を よく視認できるように、両者のあいだに妨げとなるものを置いてはならないと定めています。スタート設備は、艇を揃えるためだけのものではありません。クルーが発艇員を見られることを、規則は設備の側で守ろうとしています。
設置できないときの代用が、ステイクボート
すべての会場にスタートフィンガーがあるわけではありません。設置できない場合は、水上の一定の位置に錨で係留した、前後に動く幅広のボートで代用してよいことになっています。これがステイクボート(Stake Boat)です。
順番を取り違えないでください。原則はポンツーンとフィンガー、ステイクボートはその代用です。ステイクボートのほうが基本形なのではありません。
そして、名前の話
現場では、これを「ステッキボート」と呼ぶ声をよく聞きます。ところが競漕規則の定義表は、その呼び方が誤りであること、正しくは「ステイクボート」であることを、 はっきり書いています。規則が、わざわざ現場の言い間違いを名指しで訂正している。これは、なかなか珍しいことです。
Stake は「杭(くい)」です。「ステッキ(杖)」ではありません。艇を、杭のようにその場へ留めておくためのボート。名前が、そのまま役割になっています。一度そう覚えてしまえば、もう間違えないはずです。
分読み — 「1分前」は、来ない
艇がスタート位置に着くころには、発艇員の分読みが始まっています。分読みは発艇定刻の5分前から。通常は英語で、「five minutes」「four minutes」「three minutes」「two minutes」の順に進みます(2024年4月版)。
ローイングの普及を主な目的とした大会などでは、代表者会議 (大会の前に、出場チームの代表者へ運用が説明される会議)であらかじめ告知したうえで、 日本語で分読みを行うこともできることになっています。ただし基本は英語だと思っておいたほうが、当日に面食らわずに済みます。
さて、並べ直してみてください。5、4、3、2。——1が、ありません。
これは、スタート前の最後の2分を、どう使うかという話です。「two minutes」を聞いたあと、次に自分の耳に届くのは、たいてい自分のクルー名です。 ユニフォームを直すのも、ハンドルの握りを決めるのも、艇の向きを整えるのも、 そこまでに終わっていなければならない。
2分前 — ここから、時間は自分のものではない
「two minutes」は、境界線です。
規則は、発艇定刻の2分前までに、所定のスタート位置に着かなければならないと定めています。ユニフォームおよび装備を含めて発艇の準備を整えるのも、2分前まで。そして「two minutes」の号令のあと、クルーは発艇員の監督下に入ります(2024年4月版)。ここから先、時間はクルーのものではありません。
2分前までに位置に着かなかったクルーは、発艇員からイエローカードを与えられます。規則の書きぶりは「与えられる」であって、「与えられることがある」ではありません。遅刻は、この競技でははっきりとカードの対象です。
もっと遅れた場合は、待ってもらえません。無断で発艇定刻までに到着していないクルーを、発艇員は待ちません。レースはそのままスタートし、 到着していないクルーにはレッドカード(除外)が与えられます。除外されたクルーは、その大会のその種目の、以降の全ラウンドに出漕できません。予選に遅刻して、大会が終わる。それが、規則に書かれている結末です(2024年4月版)。
ただし、道は用意されています。問題なのは「遅れること」ではなく、「無断で遅れること」です。クルーの責めに帰せない事情でやむを得ず遅れるときは、あらかじめ最寄りの審判に理由を伝え、審判長(その大会の審判の責任者)の許可を得ることになっています。艇が壊れた、体調が急変した。そういうときに、黙って走らないでください。先に、伝える。
すでにカードを持っているクルーには、ここで通告がある
「two minutes」の号令のあとには、もう一つ起きることがあります。すでにイエローカードを与えられているクルーには、その旨が通告されます(2024年4月版)。スタートの直前に、「あなたたちはカードを1枚持っています」と 知らされるわけです。
そこに異議があるなら、直ちに挙手してください。発艇員または主審に伝えられることになっています。言うなら、いまです。スタート2分前に手を挙げるのは勇気がいりますが、規則が用意している場所は、ここです。
発艇の合図 — アテンションから、ゴーまで
発艇の合図には、二つの方式があります。旗を使う方式と、信号(電気)を使う方式。その大会でどちらを使うかは、審判長が代表者会議で説明します。代表者会議に出た人は、必ずクルーに伝えてください。当日はじめて知る、という状況を 作らないことです。
方式は二つですが、骨格は同じです。順番に見ていきます。
- ロールコール —— クルー名の点呼発艇員が、バウナンバー順にクルー名を読み上げます。ここが手順の始まりです。そして、クルーはこの点呼が終わるまでに艇の方向を定めていなければなりません。「まだ向きが決まっていないので待ってほしい」は、発艇を待ってもらう理由として認められていません(2024年4月版)。艇の向きは、点呼のあいだに終わらせる仕事です。
- 「attention」 —— 予令「これから出す」という予告の号令です。そしてここが、フォルススタートの判定が始まる線でもあります(次の節で書きます)。
- 明瞭な間 —— そして、赤予令のあと、明瞭な間をおいて、旗方式なら発艇旗が掲げられ、信号方式なら赤ランプが点灯します。
- 明瞭かつ一定でない間赤の合図から発艇の合図までの間を、規則は「明瞭かつ一定でない間」と定めています。この長さが一定でないのは偶然ではなく、規則の要求です。
- 発艇旗方式では、「go」の号令と同時に発艇旗が振りおろされます。信号方式では、ブザーが鳴ると同時に、ランプが赤から緑に変わります。
もう一度、四つめを読んでください。明瞭かつ、一定でない間。この間の長さは、レースごとに変わります。昨日の予選がこうだったから今日の準決勝もこう、は成り立ちません。
しかも規則は、この間の長さを秒数で定めていません。「明瞭」であること、「一定でない」こと。それだけです。だから、秒数を数えて覚えることに意味はありません。リズムを暗記して飛び出すという攻略法が成立しないように、スタートは作られています。
アテンションからゴーまでの間は、毎レース変わります。飛び出す方法は、ありません。 聞いてから、出る。それだけです。
設備の故障や、誰かが発した偽のスタート号令など、 クルーの責任ではない事情で正常なスタートが成立しなかったときは、「スタートやり直し」の号令ののち、ロールコールから手順が再開されます(2024年4月版)。ただし、その偽の号令の原因を作ったクルーには、イエローカードが与えられます。スタート前の水上で、号令に似た声を出さないこと。冗談でも、です。
なお、フォルススタートのあとの再レースは、これとは別の手続きとして書かれています。そこは記事の後半で、World Rowing の規則と並べて書きます。
クイックスタート — ロールコールの代わりに
気象条件など、正当な理由があるとき、発艇員の判断でクイックスタートが行われることがあります。艇をスタート位置に長く留めておくのが難しい状況を思い浮かべれば、 こういう手順が必要になる理由は、想像がつきます。
いきなり始まることはありません。あらかじめ、クイックスタートであることが伝えられます。違いは一点。ロールコールに代えて「オールクルーズ」と発声されます。クルー名を一つずつ呼ぶ代わりに、全艇まとめて呼ぶわけです。それ以降は、通常の手順と同じです。
そして規則は、使ってはいけない場面まで書いています。レースの進行が遅れているからといって、その遅れを取り戻すためにクイックスタートを 使ってはならない(2024年4月版)。運営の都合でクルーの準備時間が削られることを、規則の側から止めている 一文です。
もう一つ。クイックスタートで始まったレースが再スタートになった場合、その再スタートに 通常のスタート手順を使ってはならないのが原則です(2024年4月版)。クイックスタートを選ばせた条件は、再スタートのときにも 残っている。そう考えれば、筋は通ります。
フォルススタート — 誰が処分され、誰が処分されないか
フォルススタートは、予令のあと、スタートの号令より前に漕ぎ始め、かつスタートラインを越えてしまった場合です。認定するのは、線審(スタートで艇の位置と飛び出しを見る審判員)です (2024年4月版)。
「動いた」だけでは、フォルススタートになりません。規則は、漕ぎ始めたことに加えて、スタートラインを越えたことを条件にしています。ブレードが少し水を噛んだ、艇がわずかに前に出た。それだけで即カード、 という作りにはなっていません。
レースを止める動作も決まっています。鐘を鳴らし、赤旗を振り、「止まれ、レース中止」と告げる。これを全艇が停止するまで繰り返します。信号式の設備がある会場では、赤ランプの点滅とブザーで代えることができます。
鐘の音は、スタートの合図ではありません。止まれ、の合図です。スタートで頭が真っ白になっているとき、音が鳴ったから出る、という反射をしないこと。
つられて出てしまったクルーは、処分されない
フォルススタートを起こしたクルーには、イエローカードが与えられます。そして同じレースで2度行うと、除外(レッドカード)の対象になります(2024年4月版)。
ここで、規則はとても丁寧なことをしています。複数のクルーが反応してしまった場合、線審は意図的・先導的にフォルススタートを引き起こしたクルーと、その動きに誘発されて受動的に出てしまったクルーを区別します。イエローカードを受けるのは前者だけで、後者は処分されません。
だから、隣の艇が飛び出したように見えても、することは変わりません。慌てて追いかける必要はない。線審は「誰が先に動いたのか」を見ています。合図を待ってください。 仮につられて出てしまったとしても、そこは見てもらえる仕組みになっています。
パラローイング PR3 のスタート — 声を、ひとつ増やす
パラローイング(障がいのある競技者のローイング)の PR3 という区分では、視覚障がいのある競技者が同乗していることがあります。すると、旗方式のスタートに問題が起きます。発艇旗が、見えない。旗の合図は、見えることを前提に組み立てられているからです。
規則がここでしていることは単純で、声を、ひとつ増やしているだけです。PR3 のスタートは、こう進みます(2024年4月版)。
- ロールコール
- 「Attention」の予令
- 明瞭な間
- 赤旗が掲げられる
- 「Red Flag」の予令 —— ここが、増えた一声です
- 明瞭な間
- 「Go」の号令と同時に、赤旗が振りおろされる
通常の旗方式と見比べてください。増えているのは「Red Flag」の一声だけです。旗が上がったという事実を、音に翻訳している。それだけで、旗の見えない競技者も、他の艇と同じ情報を、同じタイミングで受け取れます。
手順をまるごと作り変えれば、覚えることが増え、審判の負担が増え、間違いも増えます。 必要なところに、必要な一声だけを足す。スタート手順の設計思想がいちばんよく見えるのは、ここかもしれません。
World Rowing ではどうか
国際大会で使われるのは、World Rowing(世界ローイング連盟)の Rules of Racing です。 World Rowing が現行版として公開している「Overall & Classic Rowing」を読み、 スタートに関わる部分を国内規則と突き合わせました。
同じだったところ
骨格は、ほとんど同じでした。
- 分読みは5・4・3・2の4回。そして、「one minute」のコールは、国際規則にも存在しません。両方の規則を読んで探しましたが、見つかりませんでした。「1分前が無い」のは日本のローカルな省略ではなく、世界共通の作りです。
- 発艇定刻の2分前までにスタート位置に着く。国際規則も、クルーは少なくとも発艇定刻の2分前までにスタート位置へ固定されていなければ ならない、と定めています。
- 「Two minutes」のあと、クルーはスターター(発艇員)の監督下に入る。これも同じです。国際規則はさらに、このコールが「2分以内にレースの準備を完了せよ」という指示でもある、と書いています。
- 「アテンション」のあとの間が、一定でないこと。国際規則も、赤の合図から発艇の合図までの間について、明確であること、そしてレースごとに変わることを求めています。一定でないことは、両方の規則の明文の要求です。そして秒数は、どちらの規則にも書かれていません。
- フォルススタートは2回で除外。これも同じです。
- つられて出たクルーを処分しない設計も、同じ。複数の艇が飛び出した場合、実際にフォルススタートを引き起こしたとスタート審判が判断した クルーだけにイエローカードが出る、と国際規則にも書かれています。
もうひとつ、日本で意外に思われそうな点があります。国際規則では、「Two minutes」のコールのあと 全クルーの準備が整っていれば、悪天候などの特別な事情のもとで、スターターは定刻を待たずに発艇できることになっています。「定刻まではまだ時間がある」は、必ずしも成り立ちません。
ここまでを読むと、ここで覚えたことはそのまま国際大会でも通じると言いたくなります。おおむね、そのとおりです。ただし三つだけ、同じだと思ってはいけないところがあります。
違い① — 遅刻の罰は、国内のほうが自動的に読める
2分前までにスタート位置に着く義務は、両方の規則にあります。ですが遅れたときの扱いは、条文の書きぶりが違います。
国際規則は、イエローカードを与えることが「できる」、発艇定刻の後に到着したクルーを除外することが 「できる」という書き方をしています。審判の裁量です。いっぽう国内規則は、「与えられる」「与えるものとし」という書き方です。国内規則は、別の場面では「与えられることがある」という裁量の言い方も 使い分けています。その書き分けを踏まえて読むかぎり、国内の遅刻の罰は、裁量ではなく自動に近いものとして 書かれていると読めます。
もちろん、これは条文の書きぶりから読み取れることであって、実際の運用は審判と大会要項によります。それでも、国内のスタートで遅刻に情状を期待しないほうがいい理由としては、十分でしょう。
違い② — フォルススタートの「判定の窓」が、開く時点が違う
どちらの規則も、漕ぎ出しただけでは足りず、艇がスタートラインを越えることが必要という点では同じです。違うのは、いつから数え始めるかです。
国際規則は、赤旗が上がった(赤信号が示された)あと、発艇合図の前にラインを越えることを条件にしています。国内規則は、予令(アテンション)のあと、発艇の前に漕ぎ始め、かつラインを越えたこと、としています。
予令は、赤の合図より前に出ます。ということは、国内規則のほうが、フォルススタートの判定の窓が早く開くことになります。アテンションのあとは、もう見られている。国内で漕ぐなら、そう思っておくのが安全です。
違い③ — 再スタートの始め方が、逆向きに読める
ここが、いちばん厄介です。義務と裁量が、ちょうど裏返っています。
- World Rowing:フォルススタートのあと、スターターは必ずロールコールから手順をやり直さなければならない。「Two minutes」を改めてアナウンスする必要はない、とされています。
- 国内規則:フォルススタート後の再レースは、「two minutes」の号令のあとに行われるのが原則。ただし、状況によっては、発艇員はロールコールからスタート手順を始めることが できる、とされています。
読み比べてください。国際規則ではロールコールからが義務。国内規則ではロールコールからは裁量。原則の側が、ちょうど逆を向いています。
だから、「再スタートはロールコールから」と、単純に覚えないでください。国内のレースで、フォルススタートのあと何から始まるかは、その場の発艇員の判断によります。「two minutes」から来ることもあれば、ロールコールから来ることもある。耳を開けておくこと。それが、この違いから引き出せる実用的な結論です。
ややこしいのは、国内規則にはこれとは別に、「正常なスタートができなかった場合」の規定があることです。そちらは「スタートやり直し」の号令ののち、ロールコールから再開されます。フォルススタートによる再レースと、正常でないスタートのやり直しは、 別の手続きとして書かれています(2024年4月版)。混ぜないでください。
最後に、もう一度。スタートの骨格は、世界共通です。5分前に始まり、2分前で区切られ、点呼があり、予令があり、読めない間があり、そして号令が来る。 ここで覚えたことは、国際大会でもそのまま通じます。ただし、遅刻の扱い、フォルススタートの起点、再スタートの始め方。この三つだけは、同じだと思わないでください。
